まなざしの記憶 ― 前編・後編 ―|両親のまなざしをめぐる心の記録

まなざしの記憶 ― 前編 ―

水底で長い時を経て幾重にも重なった落葉の底の方から、

ふと立ち上ってくる記憶がある。

それらは不思議なことに、言葉ではなく、映像として残っている。

 

やわらかく、暖かな光に包まれた記憶。

 

小さな私は、母の腕枕の上にいた。

午後のわずかな風が、化粧品の香りをそっと運んでくる。

昼下がりの母の横顔が、その匂いとともに心によみがえる。

 

それが資生堂の香りと知ったのは、もっと後になってから。

父が資生堂に勤めていたことなど、幼い私には知る由もなかった。

ただ、その香りに包まれていた安心感だけが、

今も胸の奥に、そっと息づいている。

 

日曜の朝、家族三人で出かける日。

父と母がそれぞれ私の小さな手を握り、「せーの」と声をそろえて、

空に向かって私をジャンプさせてくれた。

私は空中で笑いながら、無邪気に宙を舞った。

あのとき見上げた空の青さと、二人の笑顔が重なっている。

 

母はよく私を市電に乗せてくれた。

私は窓に向かって正座して、夢中で景色を追っていた。

母は私の肩をそっと抱き、笑顔でその背中を見守っていた。

 

そして、ある日。

母は小さな私に向かってしゃがみ込み、まっすぐ顔を見つめてくれた。

眼をいっぱいに開いて、まなざしで語りかけてくる。

その目には、言葉を超えた愛情があふれていた。

私は小さなからだいっぱいに、

そのまなざしを、ぬくもりを、香りを、光を、

すべて受けとっていた。

 

愛情は、言葉ではなく、世界そのものとして私に注がれていた。

だから、思い出すのは「ことば」ではない。

あのときの空気であり、ぬくもりであり、光である。

そして、両親のまなざし。

そのすべてが、今も私の中に、静かに生きている。

 

まなざしの記憶 ― 後編 ―

かつて私を見下ろしていたまなざしは、 いま、静かに私を見上げている。

母の眼差しは、どこか遠くを見ている。

時おり、うつろな目で私に語りかけるが、

その声は、たちまち沈黙のなかに溶けてゆく。

 

かつてしゃがみ込んで私を見つめてくれたその目が、

記憶の霧の中に沈んでいる。

 

父は、かつて日曜しか顔を見られなかったほど 仕事に身を捧げていた人だった。

厳しく、でも優しかったその人も、

いまはベッドに横たわり、

静かに日々を過ごしている。

 

記憶が遠のいた両親に、私は毎回笑顔で語りかける。

すると、ほんの一瞬―― あのまなざしが、よみがえるのだ。

 

ふと浮かぶ笑顔、答えようと動く口元、 微かに見える、あの頃の光。

それだけで、胸がつまる。

 

今は、私の番なのだ。

かつて私を慈しんでくれた両親に、

私は静かに、まなざしを返す。

 

優しい眼差しを注ぎ、微笑み、語りかける。

まるで、かつての彼らがしてくれたように。

まなざしは、言葉を超える。

記憶が消えかけても、心は通い合う。

それは確かな希望だ。

過去と今が重なりあうその瞬間に、私はまた、ひとつの映像を心に刻む。

 

両親のまなざしと、私のまなざしが――

静かに交差した、その小さな場所に。