不安とともに生きるということ

ふと訪れる不安への共感と呼びかけ

不安は、誰にでも訪れる。 特別な理由がなくても、ふと胸がざわつく。

心の奥に小さな波が立つような、あの感覚──覚えがあるでしょう。

私自身も、そうした“理由のない不安”に出会うことがあります。 予定通りに過ぎているはずの一日なのに、なぜか呼吸が浅くなったり、 なにか見えないものに心が引っ張られるような感覚に襲われることがあるのです。

そんなとき、こんな言葉に出会いました。

臨床心理学者・河合隼雄さんのことばです。

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不安をそっと隣に座らせる──河合隼雄のことばから

心理学者・河合隼雄さんはこう語っています。

「不安を無理に消そうとすると、かえって大きくなる。 そっととなりに座らせておくことです。」

この言葉を読んだとき、私は少し肩の力が抜けるような気がしました。

それまで私は「不安は乗り越えるもの」「克服すべきもの」と捉えていたからです。

でも河合さんは、そんな不安に“席をひとつ用意してあげる”という態度を示してくれました。

無理に追い払うのではなく、「そこにいるんだね」と気づくだけでよかったのです。

私はそのとき、不安が“敵”ではなく“同行者”のように思えてきました。

たとえば、午後の曇り空に気づくようなもの。

「今日は少し曇っているな」と思って、傘を持つように。

不安も連れて歩けばいい。

そんな感覚です。

そう考えると、不安は“悪いもの”ではなく、 むしろ心が今、何かを感じているというサインのような気がしてきました。

ひとりの時間にある安心──吉本隆明のまなざし

詩人であり思想家の吉本隆明さんは、こう語っています。

「ひとりでいるときにしか、本当に安心することはできない。」

この言葉に出会ったとき、私は、はっとしました。

それまで私は、誰かと一緒にいることで安心が得られると思っていたからです。

でも、吉本さんは“ひとり”の中にしか見つからない安心があると教えてくれたのです。

もちろん、誰かと過ごす時間も大切です。

会話や笑い、支え合いの中で心があたたまる瞬間もある。

けれど、自分の気持ちを誰にも気兼ねせず見つめられる時間── その静けさこそが、心の奥深くを整えてくれるような気がします。

たとえば、家族の看病で気が張りつめた日でも、 夜にひとりで湯を沸かしていると、ふと心がほどけるような瞬間があります。

その時間の中で、私はようやく自分自身に戻っていく感覚を持つのです。

「ひとりでしか安心できない」という言葉は、孤独を怖がらないでいいという励ましでもあります。

忙しく、まわりとの関係に追われるような日々のなかで、 心の靴を脱いでくつろぐような、そんな“ひとりの場所”を持っているかどうか── それは案外、安心の大切な条件なのかもしれません。

不安と向き合った瞬間──父との時間のなかで

昼過ぎ、一本の電話が鳴りました。

父が誤嚥性肺炎で緊急搬送されたという知らせでした。

その瞬間、時間が止まったような感覚。

遠方で生活する私はすぐには動けず、翌日になって荷物をまとめ、実家へ向かいました。

病院で医師から「覚悟しておいてください」と告げられたとき、 まるで現実から乖離したような感覚が襲ってきました。

そして、そのうちに身体の奥からじわじわと不安が広がるのを感じたのです。

芯に冷たい水が流し込まれるような、そんな感覚。

けれど、それは不思議なことに、「どうにもならない不安」ではありませんでした。

こんな日が来ることを、どこかで恐れていたはずなのに── いざ現実に直面したとき、震える足元とは裏腹に、 一方でなぜか静かな愛のうなものがそこにはありました。

冷静であろうとする自分も確かにいたのです。

仏教では「愛別離苦」と呼ばれるそうです。

大切な人と離れなければならない苦しみ。

それは避けることのできないもの。

でも、その痛みの中にこそ、人と人との深い繋がりが浮かび上がってくる気がしました。

不安は、決してただの恐れや心配ではなくて── 人が誰かを大切に思っている証なのかもしれない。

そんなふうに、感じている私がいました。


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不安は人生とともにある──思想が日常に届くとき

不安は「なくすべきもの」ではない。

むしろ、人が生きるうえで、ずっとそばにいる存在なのかもしれません。

仏教には「生・老・病・死」、そして「愛別離苦」という言葉があります。

人生のあらゆる段階に、苦しみが静かに寄り添っている。

それは避けようとしても、どうしても切り離すことができないもの。

でも、その“切り離せなさ”こそが、人が人らしく生きることなのではないか── そう感じたのです。

吉本隆明さんは「思想とは日常の些細なことに根ざしている」と語りました。

特別な知識や抽象的な理論ではなく、 不安に揺れる心、家族との対話、一人きりの午後── そんな何気ない時間の中に、思想が芽生えるのだと。

河合隼雄さんもまた、心に起こる波のような不安を 否定せず、そばに座らせておく態度を示してくれました。

こうした言葉に支えられながら、私は思ったのです。

「不安は、抱きしめるしかない」と。

どんなに避けたくても、どんなに振り払いたくても、 不安は、いちど静かに受け入れてみることで、 その形が変わっていくように思います。

不安があることは、弱さではありません。 それは、命にふれている証。 今日を生きているしるし。

静かな暮らしのなかで──そっと不安を隣に座らせて

父はその後、峠を越しました。

一度は肺炎が再発し、また覚悟を迫られる状況にもなりましたが、 父の意志は、予想を超えて力強く、ゆっくりと回復の道を歩んでいます。

今は退院に向けて、病院でリハビリの日々を過ごしています。

私は在宅勤務をしながら、父を応援しています。

夕方になると病院へ行きます。

弱々しくはなったものの、ベッドに座り、しっかりと前を見つめる父の姿を見て、 「この人は、生きようとしている」 そんな確かな意志を感じます。

不安は、すっかり消えたわけではありません。

けれど、それはもう、暮らしの隅のほうで静かに座っている── まるで、長年の友人のように、ただ黙って隣にいる。

不安を抱いているということは、誰かを大切に思っている証。

今日を心を込めて生きている証。

そしてそれは、決して恥ずかしいことではなく、 むしろ人が人として生きるための、かけがえのない感情なのだと思います。

この記事が、読んでくださる方にとって 「不安とのつきあい方」に、ほんの少しでも光を当てられますように。

そっと、不安に席をひとつ。

それでも、穏やかに今日を生きていけますように。