赤穂浪士討ち入りの日
元禄15年12月14日、赤穂浪士討ち入りの日ですね。遥かに昔の今日の出来事。
子供の頃、たぶん幼稚園児くらいの幼い頃、テレビで四十七士の映画を放映していて、ちょうど吉良上野介が炭小屋で見つかり引き出されて殺されるシーンを見ていました。
何でよってたかって、恐怖に震えるおじいちゃんを殺すのか、あの老人が可哀想でならなず目に映った記憶があります。
子供の目には、赤穂浪士の方が悪人にしか見えませんでした。
なぜ江戸の人々が拍手喝采して浪士を迎えているのか、さっぱり理解できなかった。
あべこべじゃないのかと。
しかし、もう少し大きくなって、忠臣蔵という物語を理解できるようになってから、冬になれば古典的な四十七士の映画を見るのを楽しみにしていました。
吉良が可哀想。。
でも、さらに歴史をもっと知るようになってみれば、やっぱり吉良上野介が気の毒に見えてきました。
歴史に悪人の典型として名前を残さざるを得なかった人物。
本当に彼が悪人だったのか。悪人説は虚構の世界であることが見えてきました。
当時期待どおり、仇討ちをなした赤穂浪士に対する大衆人気の中、赤穂浪士は英雄として祭り上げられ、祭り上げられるほどに吉良は悪人の典型としておとしめられ、歴史にデフォルメされた悪名を残す事になってしまいました。
歴史の事実って。。。
歴史の事実というのは、どこにあるのでしょうね。
吉良は地元では名君として伝えられているとか。
一方の浅野の方こそが短気な人だったとか。
喧嘩両成敗がなされなかったのは、やはり明らかに内匠守側に非があったのではなかったか。
当時、人気を博した仮名手本忠臣蔵は、吉良と浅野を描けなかった。
幕政批判ととられてしまいます。
足利尊氏の時代、塩谷判官と高師直に置き換えて描かれました。
しかし台詞のなかに、「浅きたくみの塩谷どの」と、明らかに内匠守を批判する台詞が隠されています。
赤穂浪士を持ち上げる為に、事実とは異なる描き方をしていることが、暗示されているように思われます。
四十七士は忠義の士とされますが、事実はどうであったのか。そうであったのかもしれないし、そうでなかったかもしれない。たぶん事実はもっと混沌としたものではなかったのか。
実は仇討ちは仕官目的であったという説すらあります。
実際に、同じようなケースで仇討ちした結果、どこかの藩のお抱えとなった例はあるのです。
史実はどうであったか、遠い過去の事件はもはや藪の中ですが、人々はあの事件の中に何か意味を見いだそうとした、時代の空気を吸引する象徴的な力が、存在したのでしょう。
ふと思います。現代においても、いかに虚構が多いことか。
ある種、扇動の才ある者が、いかに事実を虚構とすり替えているか。
事実を見る確かな目を養いたいものです。
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