お盆、死者を迎える日と共食信仰。迎え火と送り火に、生と死を思う

今年もお盆がやってきました

お盆になりましたが、会社は特に夏休みもない為、いつものように出勤です。

今朝の通勤電車内はガラガラに空いており、混雑による電車の遅れもなく、普段よりずいぶん早く会社に到着しました。

毎日がこんな状態なら、とてもありがたいのですが。。。

お盆ですね。

迎え火を焚いて、ご先祖さまや、亡くなった愛する人々の霊を迎え、お経をあげ、飲食を供え、送り火を焚いて帰ってもらいます。

各地方で、精霊流しや、灯籠流し、そして大文字焼きなど、地方に様々な風習があり、美しい夏の風物詩ですね。

人間の運命と後に残るもの

人の生きる時間は限られている、という動かしようのない生き物の運命を思います。

人間、早いか遅いかの差はあれ、長さは限られている。今この時、生きている人た私たちも、150年もたてば誰一人存在していないでしょう。

150年後にも、お盆の風習は残り、迎え火を焚いているのでしょうか。

人は、肉体が消えた後も、存在した事実は残り、思いは何らかの形でそこに留まり続けるのでしょう。

思いは一種のエネルギーみたいなもので、強い思いはその場に残り続けるのではないかと思う事があります。

又、人の心の中では、むしろ姿形が見えなくなって初めて、見えてくるものが沢山あります。

存在しているときには、当たり前に目の前にあり、不在がはじめて存在の意味を見せてくれます。

存在するということは、どんなに平凡であれ、存在するという事自体に意味があり、存在は様々な形で人の心に何かを残します。

だから意味のない存在なんてない。

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共食信仰の奥にあるもの

日本には共食の信仰があります。家族や、地域社会などで同じ食べ物を食べ、共同体であることを確認します。

お祝いで食事することは勿論、例えば昔あった引っ越し蕎麦なんていうのも共食信仰の一種です。

神様にお供えするのも共食の一種で、神人共食ともいいます。

お盆に故人の例にお供えするのも、生けるものと死せるものが共に食事を一緒にする事で、共同体であることを確認する行為なのです。

孤独を埋めるもの

人は一人で生きていけない、本質的に孤独な存在です。

一人で生まれ一人で死んでいくわけですから。

揺るぎない事実として人は孤独です。たとえ共に暮らしていようとも。

そして、心は孤独を埋めようと作用しまする。

孤独を埋めようとする作用が、つまるところ愛という言葉に行き着くのではないでしょうか。

愛は薬にもなれば毒にもなる。薬となれば愛情として作用するし、毒となれば憎しみとして作用する。

仏教では愛を、苦の一つとして数えます。

でも、悟りを開いているわけでもなく、世俗で生きざるを得ない人間として、そこに苦があろうとも、愛が必要ではないでしょうか。

広い意味での愛

谷川俊太郎さんの詩「20憶光年の孤独」の次のフレーズが好きです。

 

万有引力とは

ひき合う孤独の力である

宇宙はひずんでいる

それ故みんなはもとめ合う

宇宙はどんどん膨らんでゆく

それ故みんなは不安である

 

孤独の中で引きあう力、それが広い意味での愛なのではないでしょうか。

そうやって人間はこの世で、限りある生を生きる中で様々なドラマを紡いできたのではないでしょうか、
もうすぐ京都五山の送り火ですね。

かつてともに過ごした人々とも、ささやかな時をおくり、またあの世へ送り出します。

素敵な夏の風物詩です。

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