古写真から感じること
地元の資料館に古写真がいくつも展示されています。
この町の、今からは想像もできない自然豊かな風景や、森を切り開き鉄道を敷いている写真など、間違いなく、その時その場所にあった一瞬が切り取られています。
じっと見つめていると、”存在”が一時のものであることが実証され、心が締め付けられてきます。
ネットで“古写真”を検索すると、沢山の写真を見ることができます。
幕末に初めて日本の風景が切られて以来、日常のいくつもの一瞬一瞬が、切り取られてきました。
明治、大正、昭和、そして私が生まれ、まだ幼かった頃に、ある日どこかでくりれていた光景が。。。
歴史的な事件や、歴史上の人物を写した写真は、教科書で見慣れてきました。
しかし、ごく一般家庭の、何気ない日常の一瞬を見ると、百年を経た今なお、セピア色に変色した向こう側に、存在が何もかも消えた今でも、家族たちは、屈託のない笑顔で笑っています。
ある写真から
お正月の家族揃っての楽しい一瞬でしょうか。大正のある家族の一風景。
お祖父ちゃん、お祖母ちゃんから、幼い孫まで、ごちそうを前に、楽しそうに笑っています。
その時、彼らの頭の中には、未来という言葉などこれっぽっちもなかったでしょう。
ただただ、そのお正月の楽しい時間を、楽しんでいるのです。その時の幸せな気持ちのまま、笑顔をカメラに向けた一瞬なのです。
その後彼らにどんな運命があったのでしょう。全く知る由もありません。
厳然たる事実は、間違いなく、もうこの世に彼らはいないということです。
その後、どんな人生を送ったのでしょうか。
戦争という時代を生き抜くことができたのでしょうか。
心から溢れる笑顔から、遥か後世の今、ただわかる事は、その時、その瞬間、彼らは幸せだったに違いないということです。
既に歴史という扉の向こう側の世界です。
歴史とは、このような小さな笑顔ひとつひとつの積み重ねなのですね。
ささやかな幸せな日々は、古い落葉となって、古い落ち葉の上に重なり、さらにその上に新しい落葉がそっと重なっていく。その上に現代の私達は生きています。
一葉への思い
そういえば写真は本来、一葉、二葉と数えるのですね。
今では、一枚二枚と数えるのが一般的ですが、小説などを読むと葉という数え方がでてきます。
この数え方の語源は、やはり葉っぱからきたもので、薄い写真の形状を、葉っぱになぞらえ、葉と数えたのです。
ここに、昔の人の、写真に対するいとおしい思いを感じます。
古写真を写っている大正時代の家族たちは、その後、時が流れ、家族の歴史の中から、その一葉を拾い上げた事でしょう。
彼らの心に残る楽しかった思い出を引き寄せ、心の中によみがえらせる為に。
手のひらに乗せられた一葉は、彼らの心に様々な思いを起こさせたことでしょう。
誰もその場の思い出を共有することもなくなった今、彼らの笑顔だけを残して、歴史の沢山の葉っぱの下に埋もれてゆきます。
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