「智恵子抄」で歴史に残された二人の愛
「智恵子抄」、高村光太郎が綴った智恵子への愛に満ちた詩は、二人が世を去った今も、その思いは時代に刻印され生き続けています。
智恵子とはどんな人だったのか
ところで智恵子さんとは、どんな人物だったのでしょうか。
旧姓長沼智恵子さんは、明治19年に福島の裕福な造り酒屋の娘として生まれました。
福島高等女学校を首席で卒業した後、日本女子大に進学、絵画に興味を持って、大学では自由選択の油絵ばかりを熱心に勉強していました。
そして卒業後、当時まだ珍しい女性画家の道を歩み始め、平塚らいてふの依頼により、よく歴史の教科書にも出てくる雑誌「青鞜」の表紙絵を描いています。
女性運動には参加しなかったものの女性運動家との交流はあったようです。
実は平塚らいてふは、大学時代の同窓生で、大学時代は一緒によくテニスをした仲間だったのです。
平塚は智恵子はおとなしい女性だったという言葉を残していますが、智恵子さんの、言葉が残っています。
「世の中の習慣なんて、
どうせ人間のこしらえたものでしょう。
それにしばられて、
一生涯自分の心を偽って暮すのは
つまらないことですわ。
わたしの一生はわたしがきめれば
いいんですもの、
たった一度きりしかない生涯ですもの」
なかなかどうして、平塚と通底するものがあったのかもしれませんね。
表面的な弱々しさとは裏腹に強い内面を持っていたようです。
雑誌「青鞜」の、よく教科書に、既成概念にとらわず、強く自由に生きようとする強い意思にあふれています。
高村高太郎という人
一方の高村光太郎とはどういう人物だったのでしょう。
彼は、木彫の彫刻家として名高い高村光雲の長男として生まれ、幼い頃から彫刻家としての才能を発揮していました。
高名な父の後を継ぐものとして期待されていました。
しかし光太郎は、留学してロダンの作品と出会い、大きな衝撃をうけます。
ここから、父とは異なる西洋彫刻の道に進む事になります。
父の君臨する純日本的な美術界に背を向たのです。
日本の伝統に囚われない、新しい美術作品を産み出すことにエネルギーを注ぎ、父の世界とは袂を別つこととなりました。
運命的な二人の出会い
そんな頃、智恵子の知人の紹介により、二人は、光太郎のアトリエで、運命の出会いをはたし、後世に二人の名前を刻印することになるのです。
智恵子は、光太郎との出会いが、創作意欲を促進することにもなり、展覧会に二点の油絵を出品することになりました。
内面に強い上昇志向を持つもの同士、同じ魂の持ち主として惹かれあったのでしょう。
磁石が引き合うように、東京千駄木の光太郎のアトリエで同棲生活を始めることとなったのです。
光太郎は智恵子を心から愛し続けました。作品ができれば真っ先に見せ批評してもらいました。
光太郎の世の流れに反しようとするギラギラした先鋭的な性格も、智恵子との出会いにより随分和らいだようです。
自分の才能と作品を信じる恋人に出会い、彼の創作意欲も高まった事でしよう。
有名なブロンズの作品、「手」。
光太郎の西洋美術への、ロダンへの傾倒の成果です。
強く大きな手。
力強く天へかけ上ろうとでもするような意思を感じさせる作品も、智恵子との生活の中で生み出されました。
しかし、新しい美術を作ろうとする二人は貧乏しました。
ある時、新聞広告をだし、作者の意思おまかせで木彫作品を作り、詩を添えて売ることを思い付きました。
智恵子は、作品を包むふくさを作りました。二人の共同作品です。
柘榴という作品があります。目の前に命をもった柘榴がリアルに実を開いています。
生命そのものを感じさせる素晴らしい作品です。
この新しい試みはちょっとした話題になったようです。
悲しい運命
さて二人の愛の生活も、ある日悲しい破綻が生じます。智恵子の実家が破産すると同時に智恵子は次第に統合失調症を併発してゆきます。
自殺も試みました。
正気を失ってゆきながら、52才の時、粟粒性肺結核で帰らぬ人となってしまいました。
智恵子の死後、光太郎は智恵子抄を発表しました。
光太郎の心を思うといたたまれません。
しかし、智恵子が統合失調症にかかった事は心にひっかかります。
二人はきっと心から愛し合いました。
光太郎の詩には、身も心も捧げている真情が伝わってきます。
智恵子も光太郎の情熱的な愛情を、彼を愛するが故に精一杯受け入れたのでしょう。
でも智恵子に無理はなかったのでしょうか。
愛の代償。。
明治の時代、妻として生きる智恵子は、芸術家である智恵子と心の中でバランスがとれていたのでしょうか。
自立するエネルギーを秘めた智恵子さんは、光太郎を愛するがゆえに自分を犠牲にしていなかったのかと考えてしまいます。
光太郎は、精神病に、やさしい手作業が有効だと聞きつけて、病室へ千代紙を持って行きました、
智恵子は病室で紙絵の創作をするようになり、病床から実に千数百点もの美しい作品を産み出しています。
心に封印した創作のエネルギーが発現したのではないでしょうか。
智恵子の死後
智恵子の死後、日本は太平洋戦争の中で、空襲により、思い出のアトリエも多くの彫刻も失いました。
全てをなくした光太郎は、岩手県花巻市に疎開しました。
今も暮らした家が残っています。
つらい過去も村人達の温もりが和らげてくれました。光太郎は温厚な老人として慎ましく一人生きていました。
晩年になってからも光太郎は智恵子に語りかけています。智恵子の死から11年後、66歳の詩です。
三畳あれば寝られますね。
これが小屋。
これが井戸。
山の水は山の空気のように美味。
あの畑が三畝(うね)、
今はキャベツの全盛です。
ここの疎林(そりん)がヤツカの並木で、
小屋のまわりは栗と松。
坂を登るとここが見晴らし、
展望二十里南にひらけて
左が北上山系、
右が奥羽国境山脈、
まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでいる突き当りの辺が
金華山(きんかざん)沖ということでせう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
後ろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん こういうところ好きでせう
智恵子への思いをずっと持ち続け、生活の中で語りかけています。
光太郎最後の渾身の作品
そんな彼に、7彫刻の依頼がきます。女性の像なら、と引き受け、東京中野にアトリエを間借りして猛然と作品作りに取り組みます。
自らの集大成として智恵子の像を作ろうと考えたのです。
「裸形」という1949年昭和24年の詩があります。
智恵子の裸形をわたくしは恋ふ。
つつましくて満ちてゐて
星宿のやうに森厳で
山脈のやうに波うつて
いつでもうすいミストがかかり、
その造型の瑪瑙(めなう)質に
奥の知れないつやがあつた。
智恵子の裸形の背中の小さな黒子(ほくろ)まで
わたくしは意味ふかくおぼえてゐて、
今も記憶の歳月にみがかれた
その全存在が明滅する。
わたくしの手でもう一度、
あの造型を生むことは
自然の定めた約束であり、
そのためにわたくしに肉類が与へられ、
そのためにわたくしに畑の野菜が与へられ、
米と小麦と牛酪(バター)とがゆるされる。
智恵子の裸形をこの世にのこして
わたくしはやがて天然の素中(そちゆう)に帰らう。
作品は1年という異例の早さで一気に作られました。
不思議な彫刻です。二人の智恵子が向き合っているのです。
片方は内部で片方は外形なのだそうです。
光太郎は智恵子の詩をたくさん作っていますが、ほとんど彫刻はありません。
最後に詩と彫刻を融合しようとしたのでしょうか。
光太郎は彫刻家としての人生の最後に、全精力を愛する妻に捧げました。そして永遠に消えることのない智恵子が残ったのです。
この像は今も十和田湖畔に静かに立っています。
そして光太郎は昭和31年4月、73才で亡くなりました。
彼らの残したものは、今も何かを私たちに語りかけてきます。
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